呟き

環境を切り開き、周りに振り回されない人生を送るということ

様々な要因によって人生というものは変動し、「周りに振り回されて生きている」人も多いと思います。

誰かが死んだ、大きな病気をした、引っ越した、会社が倒産したなど、自分がコントロールしきれない範囲での出来事により、その後の自分の人生が大きく変わるということは少なくありません。

では、そういったことを防いだり、軽減する手立てはあるのでしょうか?

昔、父親が激務による過労で倒れました。私と家族は、それなりの高いマンションで裕福な生活を送り、食べ物にも着るものにも遊び道具にも困らずに生活していたのです。しかしそれは父の激務による代償だったんですね。

結果として、私と家族は都会を離れ、田舎の方へ療養と称して引っ越すことになります。
しかし、小学生にとって転校というのは非常にストレスがかかることです。特にそれが、あまりにも文化圏が違いすぎる場所であれば尚更です。

転校したら、結果、まず「先生の言ってる方言がわからない」。これでかなり苦労しました。

そしてクラスではまるで宇宙人を見るかのような目で見られ、彼らの好奇心はどんどんエスカレートし、軽いいじめのようなものに発展しました。

しかし、何かいざこざがあった場合、先生は大概地元の子の弁護に回る。地元には町長だとか議員だとか、町の実力者の子息も居たわけです。転校当初は「こんなことを云われた!」「あんなことをされた!」と、毎日のように母親に泣きついていた記憶があります。

しかしそんな学校にも慣れた頃、再び転校となり、また同じようなことを繰り返します。しかしようやく落ち着いて暮らせそうだ、と思った矢先、今度は親族の都合で別なところに引っ越すことになりました。そこで更にいざこざがあり、恥ずかしい話ですが親族内で絶縁状態になってしまうような出来事がありました。

これらは全て私が小学生から高校生の頃まで起きたことで、子供である以上親についていくことしかできず、何も出来ない、環境を選べない、慣れたらすぐに引っ越し、その繰り返しを味わってきました。

「子供は親についていくことしか許されないんだよ! 俺の人生をどうしてくれたんだ!」と父親に詰め寄ったこともあります。今思えば親不孝なことを言ったなぁと思いますが、その時父親は下を向いて、静かに「すまなかった」と頭を下げました。

 

そんな高校時代を過ごした私が、18年間で考えたこと。それは「絶対に周りの環境に振り回されない、自分の環境は自分で切り開く」ということです。

「自分で環境を切り開く」というのは非常に色々なことを含んでいる言葉です。

例えば「◯◯がやりづらい」と思ったらそれを改善しようと試みるのも、ある意味「自分で環境を切り開く」ことに繋がります。

大学生になってある程度自分の人生を選択できるようになってからは、とにかく、自分にとって居心地がよく、過ごしやすい場所を作り、ストレスフリーな生活をし、主体的に人生を送ることを意識してきたつもりです。

環境に流されるのはラクチンです。しかし、悪い方の環境に流されると本当に辛い毎日が待っています。

それを防ぐためには、多少のストレスや気力の消費をしてでも主体的に動いたほうが良いことだって多くあります。「ストレスフリーを得るためにストレスを得る」というのも変な話に聞こえるかもしれませんが、結果的に見れば「ああ、あの時ああしておいてよかったな」と思うことだって少なくありません。

結局のところ、周りに振り回されない人生を送るためには自分が主体的に動くしかないんですよね。

さて、自分が主体的に動くようになると、今度は周りを巻き込んで、「自分が周りを振り回す」立場になるかもしれません。

その「振り回す」立場に立ったとき、私は、過去の自分に降りかかったような苦しい思いを自分の周りにさせないよう、最大限の努力をしたいと思っています。

そして、他人の人生に少なからず影響できる立場に立っているならば、私はなるべく良い影響を与えられるようにしたいと思います。

自戒を込めたチラシの裏でした。

【艦これ】冬のイベント海域に挑戦してみたよ

神乃木です。
正月くらいは大学の修論をお休みしようということで、正月は久々に艦これにログインしてイベント海域をやってみました。

「じゃーとりあえずデイリー建造回すかー」ってことで建造をしてみたところ、300/300/600/600で瑞鶴出現!
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更に「せっかくだし大型艦建造も1回くらいしよう」ということで3000/3000/3000/3000で回したら長門さんも出現!
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ふたりとも数ヶ月に渡って探し続けていたキャラなだけに、新年早々大変幸先のよいスタートを切ることができました。

ということでイベント海域攻略をはじめ、まずは潜水艦マスでイオナをゲット。
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普通にかわいいしシコリティ高いですね。この子だけはイベント終わっても鎮守府に居てほしいなぁ……。

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で、次はツンデレ重巡ことタカオをゲット。この子はビーム超重力砲を撃ってくれるので非常に頼りがいがあったのですが、たまーに霧の艦隊から食らって大破とかするので資材がマッハでした。
なおこの時点(E2攻略完了)で既に鋼材が7000。修理代が高すぎて死にそうになっています。

そして3-2で空母狩りを続けた結果、ハルナをゲット。E3へ突入します。

E3は流石に相手が硬い!
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霧の艦隊の超オーバーテクノロジーバトルに付き合わされる通常艦がふびんで仕方なかったです。

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そうこうするうちに資材がどんどん目減りし、一気に落ち込みます。こりゃ連戦は無理だな……ということで遠征で資材集めに奔走。

最終的なパーティはハルナ・タカオ・長門・翔鶴・北上・イオナで固定になりました。
空母は不要説もあったのですが、冒頭にある程度叩けるのと、T字不利回避のために必要だったので突っ込んでいました。
ハイパー北上さんとイオナは普通にナガラ級を開幕でぶっ潰してくれるので大変頼もしかったです。陣形は単縦陣固定。

長門はまだ改でもないのに大活躍してくれました。超弩級戦艦すごい。

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最後は演習でキラキラにしてから2回連続でボスを叩き、見事イベント報酬の伊401を手に入れることができました!

とはいえ資材が足りなさすぎてもはやプレイ続行不可能…。
しばらくは遠征回しの日々になりそうです。

有川浩「塩の街」を5年ぶりに読んでみた

有川浩の「塩の街」の文庫版(角川)を読んでる。

「塩の街」がいわゆるラノベにカテゴライズされるかどうか、という問題は置いておくとして、僕が電撃文庫をはじめとするとライトノベルに手を出した初めての作品、つまりこの道に足を踏み入れた最初の作品が「塩の街」だ。
この作品が有川浩という高知の作家が書いたものであり、「自衛隊三部作」と称された作品が他二つにあり、「海の底」「空の中」も傑作であることを知ったのはそれから2~3年後になる。

◆有川浩のルーツを感じることができる作品

作者があとがきで云うように、この作品は「好きな人が死ぬ代わりに世界が救われる」or「世界が滅びるけど好きな人と最期まで居られる」の二択があったとき、どっちを選ぶか……という命題に従って書かれたものです。
有川浩が初めて書いた作品でもあって、その後の著作「海の底」「空の中」「クジラの彼」「阪急電車」「シアター!」「Story Seller」収録の3作、「図書館戦争」「レインツリーの国」を立て続けに読んできた僕にとっては、彼女のデビュー作は確かにある種の「拙さ」を感じる作品でもあったように思います(上から目線に聞こえますが、良い形容が思いつかなかったので許してください)。

だからこそ、有川浩のルーツを感じることもできる(これもあとがきで作者は言っています)、と僕は思います。

有川浩の文体は独特だと僕は思います。
あの人の書く小説は三人称だが三人称でない小説です。

普通一人称といえば「俺は居心地が悪くなって、ペットボトルのジュースをわざと大げさな動作で飲み干した」みたいな表現、つまり主人公の考えていることの披露と、場面の描写を、主人公の自我を通して語ります。
一方三人称は、「彼女は眉間に皺を寄せて言ったとといった具合に、客観的に見て起こったことを、客観的に描きます。

一人称の良いところは、「主人公の心情が分かること。主人公と読者が一体化して読めること。感情移入しやすいこと」といわれ、三人称は「客観的に物語が見えること。主人公達の裏側で起きていることも分かること。伏線などが貼りやすい」などと言われています。別なパターンでは、三人称だけど一人称、つまり主人公の心情だけは表記して、後は三人称……というハイブリッドなものもありますが、有川浩の文章はそのいずれにも含まれません

もちろん作品にもよりますが、この作家が書く文章は、基本的に全ての登場人物の心情が透けて見えます。(有川浩はこれを「物語を透明なカメラで見させてもらっています」と表現しています)
そして更に面白いのは、登場人物の考えていることが吐露されるのではなく、登場人物の考えを超えた客観的な考察がするっと文章の中に入っていることです。

一人称だけど三人称であり、三人称だけど一人称なのです。この書き方が面白い。
ストーリーやキャラクター設定、プロットなどのコンテンツはもちろん上手い。けどそれ以上に、有川浩という作家は、それらのコンテンツを自分にとって一番良い形で伝える文体(=デリバリー)を持っているんですよね。

これが、僕が有川浩を尊敬できる理由でもあり、この人の作品を好きになれる理由なんだなぁと、「塩の街」を読んでいて改めて気付かされました。

◆今と昔の、作品の感じ方の違い

さて、この作品は僕が高2のときに読んだ作品で、まぁなんと恥ずかしいことにmixiに僕の感想が書いてありました。
いやー、恥ずかしいですね。

「愛は地球を救う、それは綺麗事に聞こえるけども、やっぱり最後は綺麗事が地球を救うんだ」

みたいなことを書いてありました。恥ずかしいwwwwwwwwwwww

当時の自分はどうやら、「自分が死ぬかもしれない、相手が先に死ぬかもしれない」という状況において、それでも愛を信じることが出来た二人を称賛していたようです。それ以外にはあんまり考えてなかったみたいですね。
まぁ確かにそれもそう思うし、確かに称賛すべきものなぁとは思いますよね。

ただ、初めて読んでから5年経った僕が改めて本編を読み終えたときの感想は、「非常事態ってスゲーよなー」という、ある意味冷めた感想だったりもします。
あとまぁ「真奈可愛いよなぁ」とか「こういうヒロイン書きたいなぁ」とか「やっぱり正論優男と感情論ワイルド男のペアはここから健在かー」とか、読者としての自分と書き手としての自分が主観・メタ両方で感想を言い合うような事態になってたりもします。

話を戻して、非常事態。今更になってこの小説の設定を言うと

  1. 空から塩の塊が降ってきた
  2. 塩の塊を見た人は死ぬ
  3. 人が死にすぎて、日本は政治・交通全てマヒ、人口は1/3に減少

という割りと末期な設定になっています。その状況で、主人公の秋庭(28)とヒロインの真奈(18)が同棲している。
実にけしからん事態ですが、非常事態故の緊急避難措置なわけですね。

さて、この緊急避難的措置から恋が生まれるわけですが、これはヒロインからすると結構なパラドックスを抱えていることになります。

  • (マイナス面)このような非常事態が起きなければ、親も死なず、平凡で楽しい日々を送ることが出来た
  • (プラス面)このような非常事態が起きなければ、自衛隊の二尉である秋庭と恋に落ちることは絶対なかった

この二つの対立というのは、現実世界でも数多く突き付けられ、小説をはじめとする創作の世界でも数多く扱われています。
過去を変えることで何かの事件を回避したが、結果としてより深い苦しみを味わう、というのも物語では多く見られる構図です。

有川浩は確かに、「恋人と世界どっちを優先するか」みたいなテーマで話を書き始めたと言っていますが、僕はこの作品を通じて、

「悲劇が起こったとき、同時にかけがえの無い副産物を得たとする。そのとき、その悲劇を受け入れて肯定し、かけがえの無い副産物をこれからも大切にすることができるか?」

というテーマが隠れているように感じました。

ちなみに、僕は物語を書くときや読むとき、「作者はこのようなテーマを伝えたいと思っていた」とか「伝えたいことを書く」とか云うのは大っ嫌いです。要するに高校の現国ファックってことです。
物語の受け取り方は読者が決めるべきであり、作者は読者に対して問題提起をするに過ぎない、と僕は思うのです。小説は読者を説得する道具ではないと思います。

だからあくまで作品におけるテーマとは、「さて、こうなったときみなさんどうしますか?」という投げかけか、良くても「僕はこの件についてこのように考えますが、みなさんどう思いますか?」という問題提起がテーマであるべきだと思います。
なので、物語を書くハウツー系の講座とかで、「伝えたいことを考えよう」とか書いてあるハウツーは根本的に何かがおかしいと思って信用しないことにしています。そういうのは論文でやれば良い。

◆みんなも考えてみてほしい

さて話が思いっきりそれましたが、さっきのテーマについて僕も考えてみました。
悲しいことばかりじゃなくて幸せなこともある。じゃあ、幸せなことでその悲しいことを相殺できる? という命題。

理性的に考えれば、「悲劇は失ったものであり、二度と帰ってくるものではない。だからこれからの幸せを重んじるべき」というのが答えなのですが、本当にそう考えることができるのか、自分ではとても疑問です。
何だかんだで僕は過去を引きずる人間であり、喪失感とコンプレックスを原子炉で燃やしているような人間です。
だから多分、悲劇の後にどんな大きな幸せがあっても、その幸せを甘受することはできないんじゃないかと思いました。

本当の意味での幸せを味わったことがあれば、これについての感想も変わってくるのかなぁ。

みなさんのご意見をお待ちしております。

Twitterの限界性=伝わってるようで伝わってない、分かったようで分かってない

最近、Twitterでのコミュニケーションの限界性というものについて考えることが増えてきた。

その結果、Twitterを「呟き」ツールとして使う以上、何をどう使ってもTwitterでは分かり合えない限界性があるのではないかと感じた。

代表的な例は「自戒」「空中Dis」「空中リプライ」の問題。
例えば分かりやすい例として、禁煙したいと思っているけどついついタバコを吸ってしまう人が、自虐・自戒を込めてぼそっと「禁煙出来ないとか意志弱い人の象徴だよなぁw」とか発言したとしよう。

それを見た人の反応としては、「まぁ確かに、ずっと吸ってたのを辞めるのは大変だよね」と友好的に捉えてくれる人もいるが、一方で「もしかして、禁煙出来ない俺のことDisってんの?」と捉える可能性がある人がいることを忘れてはいけない。

1:1をはじめ、普通の会話のコミュニケーションだとどうか。その場合、同じことを同じ人が発言した場合、「え、どういうこと?」と必ず誰かが聞き返すだろう。そしてその後になって初めて、「いや、俺も禁煙しようと思ってるんだけどさ……」と事情を説明して、その会話のメンバーは意味を理解してくれるはずだ。

しかし、Twitterに聞き返しの文化はない、と僕は思う。「あくまでTwitterは好きな事を呟く場、それに対して色々言われる筋合いはない」と考えてる人も多いからこそ、自分が疑問に思うPostとかがあっても「まぁわざわざ訊くのも失礼だよな……」と思ってスルーすることが多い。だからこそ、不完全なコミュニケーションが発生する。疑問に思うPostがあっても勝手に意味を推測して補完して、納得したりする。そして、「分かったつもり」になるし、呟く方も「ああ、彼には伝わったな」と思い込むかもしれない。他人の感情を推測することほど意味のないことはない。

いいことも悪いことも呟ける場、という触れ込みで登場したTwitterだけども、結局聞き手が居る以上そこには必ずコミュニケーションが発生して、しかもTwitterの場合それが不完全になりやすいということには十分気を付けなくてはいけないと思う。

そして、自分自身が気を付けようが何をしようが、他の利用者が「呟きの場」という観念でもってTwitterを使っている以上、相手から自分に対する誤解や思い込みは常に付きまとう。

これの改善方法としては、多分ネガティブなことは言わないくらいしか方法はないし、一方で、ネガティブなことを混ぜないPostほど面白くないものは無いと思うので、結局普通にTwitterを使う以上、これがTwitterの限界になるんじゃないかと最近感じている。

原稿ようやく終わった!

「部誌を作りましょう」と云われて、2年近く書いていなかった小説を書くことに決めた5月末。

色々な試行錯誤をしながら、一ヶ月かかってようやくひと通りの形になったものを作ることができた。
改めて読みなおしてみると、それでもやっぱり甘い部分はいくつもあると思う。

音楽なんかは「やった!いい感じになった!」と完成後に大喜びするものだが、小説だとそうも行かないのは、やっぱりまだまだ目標と実力がかみ合っていないってことなんだと思う。

今回はなるべく人物の描写と情景が自然に遷移するように心がけたけど、まだまだ詰めが甘い部分が多いし、「場面的にこれは良いの?」と思いつつも外せない部分もあったりして若干煮え切らない部分も。

ただ、このまま修正を繰り返していてもラチが開かないので、どこかで区切りをつける必要があるとは思うのも事実。そういう意味で、締切りのある媒体に作品を載せるのは凄く良いことだと思う。

ちなみに今回書いた作品は大学のサークルの部誌に載る予定(コミケに落ちたので発行日現状未定)ですが、物理的に買いに行けない方や興味のある方はTwitterなりメールなりで個別にリプライを頂ければpdfでお渡しします。
部誌が出たら是非、買える方は買ってね。

読んだ方は感想をコメント欄にでも頂ければ幸いです!