小説「君が電話をかけていた場所」と「サマー・コンプレックス」の話

横須賀市にある立石公園からの眺め。この風景をしばらく見てると世の中のことはだいたいどうでもよくなる。

僕は普段から活字中毒で、何でもいいから縦書きの文章を読んでないと発狂する病気にかかってます。

だいたいはなろう小説の連載を縦書きアプリで読んで気を紛らわせてるんですが、最近一般文芸で面白そうなものがなかなか見つからない(というか見つけようとしてない)ので少し真面目に探してみようと思い探してみました。

そこで行き当たったのがこの本「君が電話をかけていた場所」という青春小説。上下巻あるものですが、結論からいうとめちゃくちゃ面白かったです。Amazonのレビューも5に近いのですが、その理由に納得しました。

そして読み終えた後に出てきた「サマー・コンプレックス」という概念。こちらも非常に興味深かったので、関係ない写真を挟みながら今日はその話をしようと思います。ネタバレはありません。

まずこの本はだいたいどういう話かというと、主人公の深町陽介という男子高校生と、ヒロインの初鹿野唯(はつかのゆい)というクラスメイトの関係性を描くお話です。

ただのラブコメというわけではなく、舞台となる田舎町「美渚町」に伝わるという伝説に基づくファンタジー要素が含まれているものです。

珍しい設定として、この本は2015年に書かれたものですが、設定が1994年です。1994年の理由は作中でも言及があるのですが、一番大きいのは「携帯電話がない時代のストーリー」を描きたかったからだと思いますね。公衆電話と固定電話が前提となる世界のストーリー。LINEとかメールで気軽に連絡することができない時代の独特の味わい深さが描かれています。

こじらせ具合が共感できすぎてやばい主人公

上野にある不忍池の蓮は7月~8月に見頃になります。ピンク色の花がかわいいですね。

顔にある大きな痣がコンプレックスで、視線恐怖症・醜形恐怖症を患っている主人公の深町陽介は、小学生の頃自分と仲良くしてくれた初鹿野唯に恋心を持っていた。「この顔面のひどい痣さえなければ、初鹿野の心を射止めることができるのに」と思い続けて約数年。陽介が高校生になったある日、突然鳴った公衆電話から見知らぬ女が「賭けをしましょう。あなたの顔面の痣を消してあげます」と持ちかけてくる。

顔面の痣が消せるなら……と安易に即断した陽介だったが、それを「賭け」と呼ぶからには当然のごとく「代償」が必要であり……というストーリーです。

この本の良いところは、とにかく主人公の陽介のこじらせ具合が非常に理解できることですね。主人公のこじらせ具合が、綿密な心理描写と一人称でしっかりと伝わってくるんですよ。

この主人公、自分の顔の痣を理由に「どうせ彼女が俺に良くしてくれる理由なんて、公平に接する自分に酔っているからだ」とか「こんな顔を持った俺と彼女が釣り合うわけがない」といった思考を良くするわけですね。これすっごくよく分かるんですよね。別に僕は顔に大きな痣はないですが、少なくともこの手の僻みっぽいというかこじらせたというか、要するに幼少期に十分な青春を摂取できなかった人間特有の歪んだ思考回路は大小あれど持ってますし、他者から承認を前提としない防衛的な思考というのがものすごく良くわかるんです。

しかし、いやだからこそ、この本を読んでより暗い気分になるとかそういうものも無いんですよね。なぜかというと主人公は高校1年にしてはかなりマセてて、客観的に自分への評価を捉えているから。見知らぬ女の賭けに乗って痣がなくなってからというもの、陽介の人生はトントン拍子に進むようになるんです。それに対しての不信感のようなものはありますが、本人は「人間、結局のところ顔なのかもしれない」と切り捨てています。そして一方で、もし痣が元に戻ったらどうしようかと不安にもなる。そういったミクロでの感情の揺れ幅がありながらも、決してポジティブかつ楽観的になりすぎず、かつネガティブに悲観的になりすぎずやるべきことを淡々とやっていく主人公というのは、読んでて安心できるんですよね。

そしてこの本には二人のヒロインが登場しますが、この二人がまたいい味出してるんですよね。まあ小説のヒロインなのである程度の記号性は持っているわけですが、それにしてもセリフまわし一つ一つが魅力的に映る映る。前述のように主人公にだいぶ共感してしまってるせいで、「あぁ〜〜こりゃこんなこと言われたら高校男子とか落ちるわ」みたいな。そんな楽しさがある。でも陽介は元々がコンプレックスをベースに生きてる人間なので、「こんな嬉しいことがあったけど、最後は幸せになれないのではないか」といった謎のネガティブモードになったりもする。恋する少年特有のやきもきした気持ちと、それを表に出すまいとしてわざとクールに振る舞ったりする挙動全般が見ててよかったです。

魅力的なヒロインとそれに振り回される主人公の気持ちというのが非常に生々しくて、読んでて最後まで飽きない作品でした。

サマー・コンプレックス

横須賀市にある立石公園からの眺め。この風景をしばらく見てると世の中のことはだいたいどうでもよくなる。

さてこの作品は多くの青春モノのお作法に則り、季節は「夏」です。

みなさんは「夏」と言われて浮かぶものはどんなものがありますか? 蝉の声、照りつける太陽、輝く海。おばあちゃんの家の縁側でかき氷を食べる。クラスメイトと共に肝試しに行く。夏休みに好きな女の子と夏祭りに行く、バス停で雨宿りする……色々ありますよね。

ですが、それは本当にあなたが経験したものでしょうか? まあ実際に経験したことのある人はそもそもこんなブログ読んでない可能性がありますな。とはいえ、僕みたいに幼少期に十分な青春を摂取できなかった人間からすると「おばあちゃん」以降のエピソードは全部虚構なんですが、なんとなく「夏ってこういうものだよね」みたいな感覚がありますよね。

この本を書いた作家がツイッターでこのように言及していました。そういう「夏のイベント」のことを「正しい夏」と言うんだと。なるほど、夏が来るたびに訪れる謎の憂鬱さと、「あぁ、今年の夏もまた無為に過ごすんだろうな」という確信めいた諦念はこの概念で説明できるのかと。この本のあとがきに、上記ツイートを噛み砕いた説明があって「なるほどね」と納得してしまいました。

世間の人々の「正しい夏」は何に基づいて作られるんでしょうか。それは幼少期に見たアニメであり、映画であり、小説であり、漫画なんだろうと思います。様々なメディアに凝縮された「こんな夏を送りたかった」が自分の中で更に濃縮されたものが「正しい夏」になる。僕が言っている単語でいうと「架空の青春」ってやつですな。

面白いのは、この歳になってくると当時空虚だった実際の夏の思い出がアニメや映画にあった虚構の思い出に上書きされてなぜか美化されてしまい、昔ほど「サマー・コンプレックス」を感じなくなってくることなんですよね。むしろ楽しいものだとさえ思える。でもそれに気づいたとき、自分の本物の夏は歴史的遠近法の彼方(※アニメ「氷菓」の言葉)に消えていってしまったんだなぁと実感して、それだけ歳を食った自分を実感してサマー・コンプレックス以上の憂鬱になったわけですが。

結局「夏」とは何なのか

先の写真の反対側の景色。立石公園付近は観光客も多くなくていつ行ってもだいたい快適。

まあとにかく、それだけ「夏」というものは人々にとって特別なものを持っているということなんだと思います。

夏休み特有の様々なイベントもそうですが、学校がないとき特有の開放感とか自由さ、自由だからこそ感じる「自分の時間の使い方を自分で決められる、少し大人になった感じ」とか、親や学校のオトナに干渉されない世界、そういった長期休み特有の要素と、暑さ、夕立、湿度、蝉の声などの日本の夏特有の季節的要素がマッチして、夏休みというものが思春期の少年少女にとって大きな意味を持っていたことは間違いないでしょう。

そういった「現役の夏」が過ぎ去っても、人はまだ「夏」を求めて様々なメディアを読んだり見たりしますね。そしてそのたびに「私もこういう夏を送りたかった」と憂鬱になる。まさしくサマー・コンプレックスです。

人はなぜ、サマー・コンプレックスを味わってても「正しい夏」を追い求めてしまうのでしょうか。

それは多分、「自分の中に残った「夏」を消さないため」なのではないかと僕は思います。前述の通り歳を食ってくると「夏」はほとんどが虚構で濃縮還元されてくるわけですが、それでも1%くらいは多分本当に自分が経験した「夏」が残っている。その夏を守るために、自分の中の夏を絶やさないために、人は日々サマー・コンプレックスをこじらせていくんだと思います。

人々にとって「夏」を感じることというのは、それだけで様々な感情を思い起こさせ、その時だけ自らの精神を若返らせることのできる、一種の麻薬のようなものなのかもしれません。

 

「君が電話をかけていた場所」は上下巻構成で、下巻が「僕が電話をかけていた場所」になるので、もし上巻を買う場合には下巻も一緒に買っておきましょうね。絶対下巻も読みたくなるので。

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