本記事は、野崎まどの「know」を読み終えて「???」となってネットで考察を探してみたものの、いまいちしっくり来ないと思っている読者の方向けに書いた記事です。
というよりも、同じ状況で、いまいちしっくり来なかったので、私なりの解釈をここに書いています。コメントによる議論等大歓迎です。
それだけ議論する価値のある作品だと思います。
よって、ネタバレを多分に含みます。
セックスについて考えると、物語の仕掛けがわかる
この話はかなりの未来が舞台になった小説で、それ系の定番である脳の機械化や量子コンピュータ等が登場します。
作中で明らかにされていく脳科学やネットワークの仕組みは、架空の事象であれ事実の事象であれ、読んでいるととても興味をそそられます。
最後の「情報戦」に至るまでの流れも鮮やかです。
しかしこの本、終わり方がどうにも納得行かないと思いませんでしたか?
私は思いました。
ですが、野崎まどという天才作家が納得の行かないストーリーを書くはずがないです。きっと私の読解力の不足だと思い、疑問点を明らかにしていく作業をしました。
結論として、納得がいきました。多分私の読解力不足でした。
納得が行ったので、納得するにあたってのプロセスを書いていきます。
P304でセックスしているシーンが引っかかる
「昔、一度だけ、連レルさんに会ったことがあるんですよ」
まずは、野崎まど先生渾身の濡れ場での、知ルのセリフです。
このセリフが、作中で一番最初に引っかかったセリフです。
いつ会ったのか? 「昔」っていつ?
最初私は、「実は彼女は例の個人情報偽装テクを使って連レルとセックスしたことがあり、冒頭のシーンの女遊びの部分で会っていた」かと浅はかに思いました。でも違いますね。なぜなら303Pで知ルの「知らない刺激」と明示されているのです。ですので、その線はありません。そもそも時系列的に数日前のはずなので、「昔」というには近未来過ぎます。
とすると思い当たるのは、連レルが14歳の時。「先生」と会った時しかありません。そして、ありました。
答えは、39P。連レルが初めて入った京都大学の校門で、ベビーカーを押した学生とベビーカーの中の赤ん坊と目が合うシーンです。この赤ん坊こそが、知ルの「昔」です。
この学生の所属研究室が、「先生」の研究室だったのですね。そこで彼は「先生」の研究室を尋ねる気になったのです。
こんな赤ん坊の時の記憶を元に、なぜ「会ったことがある」と言えるのか? これは私の推測ですが、もう既にベビーカーの中の赤ん坊の時点で、量子葉が埋め込まれていたと考えるのが妥当だと思います。量子葉が五感の体験を記憶しているのではないでしょうか。
やっぱりセックスのシーンが引っかかる。
私は別にロリコンなわけではないですが、ロリコンなわけではないですが(大事なことなので二度言います)、やっぱり引っかかります。
次に引っかかるのはここ。
こうして僕と彼女の間に小さな”やり残し<約束>”が生まれた。(P305)
こここそが、この物語のキーだと思います。
この「やり残し」が何なのかは、知ルが「死ぬ」前に連レルが彼女にキスする場面も含め、後の本文中で語られていません。しかし、可能な限り正解に近いと思われる推測ができます。
「事象の地平線を越えて戻って来られる宇宙船」の本当の意味
本作では、彼女は”死”んでも戻ってくる手段を用意している、という風に書かれています。
しかし、実の話では奇跡の復活で感動の再会……とはなりませんね。
でも、彼女は「復活」してるんです。
誰も知らない土産話を持って(P347)。
その土産話とは、「”死”んだ後のことと、母親の胎内で意識が芽生える過程の体験談」です。
P305の「やり残し」とは、知ルの子供のことです。
つまり、知ルは脳死状態にありながらも生体は生きており、胎児を育てることができているのです。その彼女の「寝顔(P346)」を見た連レルは、まだ「死」から1ヶ月後、妊娠4〜5週間ですから、未来の技術でも妊娠しているかどうかはまだ分からないでしょう。
しかし連レルはこの時、「彼女が生き返る」ことを確信しています(P345)。どう生き返るかというと、「僕らの知らない宇宙船の製造方法(P344)」を使って生き返るようです。
どういう意味でしょう? これは、「母親である知ルの記憶と処理能力をまるまる引き継いだ子供を出産する」だと考えるのが妥当ではないでしょうか。
この物語の連レルの視点では、「死」とは「脳が機能しないこと」、「生きる」とは「知ること」、として繰り返し描かれています。
つまり、「生き返る」というのは、再び脳が機能を再開すればそれでよく、肉体は別な人間であっても、記憶と処理能力=脳機能が本人と互換するならば、たとえ肉体は別人であったとしても、それは生き返ったといえるはずです。
ですので、「事象の地平線を越えて戻って来られる宇宙船」とは、「知ルの脳機能と互換する脳を持った新しい胎児の肉体」だと考えるべきでしょう。
セックスの話に戻ろう
ロリコンry
導き出される結論は、つまるところ「連レルは14歳の処女の女子中学生とセックスをして妊娠させた糞野郎である」ということです。
濡れ場のシーンをもう一度読み返しましょう。
ここで僕の全部を吸い上げられてしまうのかと思うと(P304)
レトリックが使われていますが、この「吸い上げる」は二つの意味を持っています。1つはセックスという体験を彼女が吸い上げること、もう1つは、セックスを通して子種を吸い上げることです。
連レルは一つ目については、だいたい教えた。でも二つ目については結構曖昧で、彼女が”死”ぬ直前までぼかされています。
そのぼかされたメッセージ、彼女の”死”の直前にキスと共に伝えたメッセージは、
「愛している+知ルのやりたいことを僕も理解した+知ルの子供は責任を持って面倒を見る+僕は知ルの家族だ+また会うときまで楽しみにしている」
という旨のメッセージでしょう。知ルはサトリの能力があるので、口にしなくても通じます。でもそれは、
この世界でとっておきの、最高に幸せな情報(P337)
なのです。天才で孤独だった彼女の存在を無条件に全肯定し、将来を約束して愛を誓う、究極的なプロポーズです。「最高に幸せな情報」に決まっています。
きっと、父親である「先生」からはこう聞かされていたことでしょう。「もしかすると、この世の中でただ一人だけ、お前の元を訪ねてくる男が居るかもしれない」と。14歳の連レルの才能を見込んで先生は暗号を残しているので、心当たりのある男が一人だけいるのです。
たとえ規格外の天才であったとしても、中身は、養護施設と隠居生活でまともに出掛けたこともない、外食したこともない、買い物もしたことがない14歳の少女です。恋だって、きっと夢見るものの、なかなか実現できないものだったのでしょう。
そんな想いを昇華する「幸せな情報」は、連レルにしか与えることが出来なかったのだと思います。
この一連の推論は無根拠で言っているわけではありません。
「存在自体が大切なんだ。君がいること。物質としての質量と、情報としての質量。君の全てが必要なんだ。だから君は生きていれば良い。後は君であればいい」
〜中略〜
「ただ、せっかく生きているのだから」「せめてその生は幸せでありたいものだな」(P238)
ここは、知ルが「先生」に成り代わって言っているシーンでの言葉ですが、「やり残し」を「キー」とするなら、「錠」はこの部分、即ち「物質」と「情報」です。
このシーンでは、「連レルの存在価値は情報だけではない」と示されています。つまり、肉体が必要だと言っているのです。
圧倒的な情報密度を誇るはずの彼女が、なぜ連レルという存在の「物質」と「情報」の両方を必要とするのか? 答えは、「物質」=「生殖機能を持つ男性の肉体」、「情報」=「愛情」の両方を彼女に提供できるのは、連レルしか居ないからです。
ここのセリフだけは、「先生」ではなく「知ル」が言っていて、婉曲的に告白したと解釈するのも面白いですね。感情的には、その前段で三縞に嫉妬している。論理的には、彼女は既に知識として知っていたはずなのです。「曼荼羅」によると、男女が交わって一つになることで、真理に到達することができるのだということを。だからこそ婉曲的に告白した、そう捉えるのも悪くはないかなと思います。ただし、ここは推論の域を出ません。
どうでしょうか? なんとなく読み解けた気がしませんか?
まとめ:「know」の裏キーワードと最後の解釈
さて、この物語には、意図的に仏教の概念が取り入れられています。舞台が京都であることからも代表されるでしょう。
そして、この物語では、あちこちで使われている表現があります。それは「回転」。「輪を書いて廻る炎の剣」の他、あちこちで回転にまつわる表現が使用されています。
仏教+回転ときたら浮かぶ言葉は何でしょうか? あの有名な言葉。
「輪廻転生」……これこそが、この物語の裏キーワードではないでしょうか。
この作品は、「人間は死んだら終わりではないよ」という仏教のごく一般的な教えを、超天才と超科学のオブラートに包んだ物語として提供しているのだと、私は感じています。
最後の解釈は、本文最後のセリフ。
死んだ後のことなんて、子供でも知ってるよ(P354)
これは、
- 死んだ後の世界が、知ルによって明らかにされた
- 死んだ後でも、記憶を引き継いで新しい胎内に生まれる技術がもう確立されている
- 2.の技術により、この少女は、前世の記憶を持っている
- 少女の母親は、前世の記憶を持っていない
という事実に裏打ちされたセリフかと考えます。
1については「生き返った」知ルの功績ですね。
2、3、4は、母親に対して反論で「子供でも知ってる」と言い返したことからの推測です。
このシーンは、母親が少女(娘)の死とその後について過度に心配している一方、少女は安心しきっていること(悟っている)が見て取れます。
なぜそんな構図になるのかというと、母親には前世の記憶がないので「死とは何なのか」を体験として理解していない。なので心配する。
でも、少女のほうは前世の記憶があるので、「死とは何なのか」「死んだ後どうすればいいか」を知っている。だから安心してコミックソースを読んでいられる。そういうバックグラウンドがあるのだと思います。
「この子ったらもう本当に子供で(P352)」と口うるさい母親に対して、「子供でも知ってる」という子供からのこの反論は、この文脈においてはキラーワードであり、大変センスに溢れた締め方なのではないでしょうか。
……まぁ、ここまで考えなくたって、章タイトルの「birth」から「death」までを考えたら、転生がテーマになってるって分かる人は分かるんだろうなぁ。。
以上、自分の国語力のなさに呆れつつも、頑張って自分なりに解釈してみました。ご参考に供すれば幸いです。
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